猿っ子踊りの由来

戦国の時代、伊豆は後の北条氏の領地であった。この頃、北条氏の本拠地は韮山にあった。

伊豆は海の砦として北条水軍の基地であった。沼津の獅子浜、長浜、重須、江梨から

南へかけて土肥の浦、宇久須、安良里の浦、田子の浦、松崎の浦、雲見、

妻良、子浦と下田を経て伊豆半島を一巡して伊東、宇佐見まであって、北条氏配下の

海の守りを固めていた。当時豊臣秀吉は、相模小田原の北条氏を平定するため

西国からやって来て、清水港に豊臣の水軍を集結させ、出撃の機をうかがっていた。

機は熟し、遂に火蓋は切って落とされ、豊臣水軍は、どっと伊豆の西海岸を

攻撃して来た。伊豆の北条水軍は、豊臣水軍に抗しきれず、獅子浜や重須の砦は

激戦の末、落城したのである。そして土肥、宇久須、安良里、田子と順次落城して

さしもの伊豆の砦は総て豊臣方の手に落ちたのである。その翌年の天正十八年

(1590)小田原城の北条氏は豊臣秀吉に降伏したのである。

その後、駿河湾の緊張も溶けて元の静かな海辺にもどったのである。

しかし、この頃から平和でのどかな浦々に海賊が出没し始め、善良な漁民の

漁獲物や農作物をかすめ取ったりして、数々の悪事の横行がめだって来た。

そこで村人たちは、この海賊どもを何とかしなければと、毎晩番屋(集会宿)

に集まって知恵をしぼって自衛策を考えた結果、海賊どもに対抗できる舟を

作った。そして、その当時迷信ではあるが海の仕事をする人たちは猿という

動物を大層嫌っていた。それは魚が漁場からいなくなる、不漁となると

信じていたことに気が付いたのである。そこで舟のへさきに猿の姿を

した人を立たせて、海賊どもに立ち向かっていったのである。海賊どもは

舟の上に猿が立っているのを見てびっくり仰天、海上に忌みきらう猿が

いるのは、何か大異変が起こるのではないかと逃げ去ったのである。

それ以来、海賊が沿岸に現れた時には、猿の姿をした人を舳先に

立たせて、海賊を退散させたのである。こうしたことがあってからというものは、

浦々にはまた、もとの平和がもどってきたという。

そこで宇久須、安良里の浦の人々は、11月3日のお祭りには飾り舟を

海に出し、猿の姿をした人を舳先に立たせ、舟の上では赤頭巾、赤衣装を着た

若い衆が謡(うたい)に会わせて「猿踊り」を踊りながら湾内を一巡する行事が

行われるようになったという。

  後記

この行事は昭和18年(1943)まで行われていたが、太平洋戦争の末期から

人手不足で若衆も少なくなり、舟も無くなってついに廃止となった。

戦後、お宮さん(八王子神社)に奉納されている神舟のみこしを

氏子の子供達がかついで部落内をねり歩き、赤い頭巾と赤い服を着た子供達が

神前で「猿っ子踊り」を奉納するようになり、現在に至っている。


以上 賀茂村教育委員会 発行 賀茂村の伝説より

ここからは、カネジョウ商店 浅賀丈吉の文章である。

私は昭和49年3月家に帰ってきたので、そこからの文である。

この年 当時の城福寺の住職故長島一道和尚 教諭をしていて私の家の

隣に住んでいた 故浅賀雄治先生が芝子供会を組織した。芝(しばと言うのは地域の名

正確には柴)。目的は当時横の繋がりしかなかった子供達に良い意味での

縦社会を教える。六年生が下級生の面倒を見る子供会を目的とした子供会。

六年生が卒業してもジュニアリーダーとして子供会に関わることができる

子供会を目指したが最初はそうも行かず青年リーダーを組織した。

柴の青年男性 2名 女性4名 でスタート。

昭和50年1月には 才の神を復活させた。その後猿っ子踊りもという話になり

この年11月猿っ子を踊れる最後の人だった 故松野金作さんに踊ってもらった。

この時の様子は、当時歯科医をしていた故池田台二先生の依頼で私が

八ミリフィルムに音入りで収めた。結局このフィルムが正確な踊りを知る

唯一の物となってしまった。復活させるに当たって誰が踊るかと言う問題に

なった。見ての通りの体力のいる踊り。私ももう一人の鈴木さんもビビッてしまい

結局子供達にお願いする事となった。1年練習して翌51年より子供達による

猿っ子踊りは復活した。と今まで思っていた。平成16年今一度調べなおしてみようという話が出てきた。
昭和51年説 昭和55年説両方有るからだ。早速昔の資料を探してみる。
「昭和51年度の行事と52年度行事予定というプリントが出てきた。11月3日御神輿祭りとなっている。
又昭和52年度の行事予定には8月キャンプ 12月クリスマス 1月歳の神 3月お別れ会と書かれていて
猿っ子などは出てこない。これを当時一緒にリーダーをやっていた鈴木太治君に見せて話し合った結果
51年には子供に御神輿を担がせて出崎神社祭典に参加させただけなのではないかという結論に
達した。この御神輿祭りを猿っ子踊りの復活と勘違いしている人達も多い。かくいう私もその一人だった。
当時の資料がもっと出てくれば詳しいことも分かってくると思う。写真のネガもどこに入っているのだろう。
それが出てくればもっと分かるだろうけれども。わかり次第書かせて頂く。

ここに当時復活の労を執ってくれた故鈴木守氏の覚え書きを載せておく。

猿っ子踊りについて      鈴木守


毎年11月3日出崎神社例祭の折り 祭典終了直後神前に於いて奉納される。。

芸能の由来について

凡そ400年前 賀茂村一帯を海賊から守ろうということで始まった物である。
毎年11月3日出崎神社の祭典に際し太平洋戦争中(昭和17年)迄は10トンばかりの和船を
御船に仕立て湾内を巡航。船内では宿老衆の御舟歌の吟唱に合わせて若衆が娘の長襦袢を着て
櫓を漕ぎ、真っ赤な装束をした猿姿の若衆が船首で猿踊りを披露していた。
しかし戦後、船もなく経費も無く毎年祭典に際し御船歌を松野金作氏一人が猿踊りを奉納してきたが
それも松野氏が老齢から引退代わって昭和55年から地元柴子供会が受け継ぎ現在に至っている。
尚平成元年宇久須神社祭典当番区を記念して女子子供会による猿っ子太鼓を製作。宇久須神社に奉納
全村民に披露した。

構成員は柴子供会 男女全員 男子は猿っ子踊り 女子は猿っ子太鼓
ちなみに踊りは 次の4部から成っている。
1.立ち踊り  2.扇踊り 3.鯨突き踊り 4.逆立ち踊り

猿っ子踊りの故事来歴
天正18年小田原北条氏滅亡と共に伊豆の水軍も滅び、一方清水に残存していた豊臣水軍が時折
西伊豆海岸へ来て漁師の漁獲物を取り上げ果ては陸上の農作物までさらい取られて西伊豆住民は
大変困窮していた。宇久須安良里の浦々では毎晩の様にその対策を練った。そして名案はなかったが
窮余の一策として  さるは漁場から魚が去ると言うことで全国的に漁師の間では禁句とされていた。
海上に於いては さると言う言葉の発言も許されなかった。これを逆手に取って。船首に猿の格好を
した人をたて、海賊どもに立ち向かっていったのである。
これが見事成功した。海賊共も瀬戸内海、紀州の漁師で有るためその迷信は心から信奉して
いたのである。当時としてはその迷信を逆手に取る等、誠に画期的な勇気と決断があった事で吾々先祖
の叡智には心から敬服するものであります。
それから毎年出崎神社の祭りには水軍に使われた舟を飾り付けし港内を巡航して船首に猿の
格好をした若衆が出て猿踊りを披露して祭りの一大イベントになっているのである。
昭和17年頃まで此の行事は続けられてきたのであるが太平洋戦争の末期、舟もなく経費もなく
中断されていて戦後 神社の神前に於いて氏子一同の御船歌と松野金作氏一人の猿っ子踊りを
奉納してきたのであるが松野氏の老齢に伴い引退と言うことで昭和55年地元柴子供会が
継承し現在に至っている。    鈴木守 書く


静岡の文化 2003年75号より

サルッコ踊りを引き継いだ子供達

伊豆西海岸は宇久須に、捕鯨の予祝芸能ともとも言えるサルッコ踊りがある。
賀茂村宇久須は、駿河湾を目の前にした漁村で、柴、浜、月原、神田、大久須の5地区に
分かれている。それぞれ地区に氏神を祭るが、村の総社である、宇久須神社の氏子でもあり
二重氏子の組織になっている。サルッコ踊りは、この柴地区の出崎神社(八王子神社)に
奉納されている。地元の伝承では、昔、海賊がやって来ては村を襲うこと度々で、
それに対抗するため、舟の舳先で猿の踊りを見せて、猿と去るを掛けて海賊を追い払ったのが
このサルッコ踊りの始まりと伝える。しかし、これは将軍の乗る、御座船の進水儀式に、猿若太夫が
舳先で御船歌に合わせて踊ったのが始まりという説があり、サルッコ踊りの他に、お目出度
初春・皇帝・松揃い・桜揃い・小袖揃い・神揃い・高砂・若い衆揃いなど九曲の御船唄が伝わる
ところからして、どうも海賊撃退説は信じがたい。それはさておき、サルッコ踊りは、赤い猿を
もどく衣装に身を包む子供達が、「立ち踊り」「扇踊り」「鯨突き踊り」「逆さ踊り」と順次舳先で踊る。
立ち踊りは、手をかざし、鯨が沖に居ないか探す所作。扇踊りは、金地に日の丸の扇を採り、
招くような所作があるが、これは次の鯨突き踊りと連鎖し、鯨を招き寄せる踊りと見える。
鯨突き踊りは、銛を採って鯨を突く所作の踊り。逆さ踊りは逆立ちになって見せる物で、
地元では去るの反対来るを逆立ちで掛けている踊りと解釈している。
さて、このサルッコ踊りは、神社の沖を漁船を猿っ子人形で満艦飾りに飾り立て、乗り込んだ青年たちが
御船唄を唄い、舳先でサルッコ踊りを踊って海上安全、豊漁祈願をしたのである。
これが昭和一七年まで続いたが、戦争で舟も維持出来なくなり、一時中断した。これを戦後、
松野金作さんが復活させて、神社の前で奉納してきた。しかし、せっかく復活させた物を
金作さんの代で途絶えさせるわけには行かぬと、昭和四十九年ごろから子供達に引き継ぎ
今では柴地区の小学生が伝承するようになった。祭り当日には、赤い衣装のサルッコが
大勢で踊る。隣の安良里にも、同じサルッコ踊りが伝承され、船型の屋台が曳かれて、
その舳先と舟の先下で子供たちが一斉に踊るのは壮観である。安良里ももともとは青年の
役所であったが昭和四十年代から子供達が受け継ぐことになった。伊豆半島では
珍しい、捕鯨の予祝芸能を、かろうじて子供達が引き継いだのだ。

以上



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