無縁仏の墓

  安良里
高木威一郎


 旧安良里小学校の裏手に、長い歳月を経てすっかり風化し
碑文も定かでない石碑が1基訪れるものもなく佗しく建っ
ていた。
私がこの学校に学んでいた頃、名も知れないこの石碑の主
はいったい誰だろうと、子ども心に興味を抱き、その後、明
治のことを知っている村の古老を尋ねてみた。そして当時八
十余歳の老母からその由来を聞き出すことができた。
 この物語はその頃の任侠の徒大場の久八の子分の秘話であ
る。大場の久八は当時東海道筋では、清水の次郎長と並び称
せられた人で、当時こうした博徒たちが、辺境の地安良里に
も出入りしていたということだった。久八には、安良里にも
お妾さんがあり、その名をお千代と言い、村では評判の器量
よしだったと言う。
 秋も深まったある日、久八はお千代の家に草鞋を脱いでい
た。ところが久八の行動を秘かに探索していた幕吏の知ると
ころとなり、下田奉行の部下が安良里へ急行した。早くも久
八はこのことを知り、奉行所の捕手が安良里へ乗り込んでき
た時は、既に大野を越えて猫越峠を風のように走っていたと言う。
 この久八の子分亀吉(亀さんと呼んでいた)が、長いこと
この里に逗留し、浜の弥左エ門屋に宿をとっていた。土地の
若者との折合もよく、ひいきの村人も多かった。この亀さん
と些細な諍いを根に持つ博徒の島八は、日頃から仕返しの機
会を狙っていた。ある日二人は宿で杯を交していた。長八の
野心を知らない亀さんは、勧められるままに杯を重ね、酔う
ほどに歌の一つも出る頃となった。頃はよしと見た長八は、
「亀や、この肴を食ってみろ。」
と足ではさんだ皿の刺身を亀さんに突きつけた。この無礼の
しぐさに怒った亀さんは、一喝して、手に持っていた杯を長
八に投げつけた。体をかわした長八は、一尺八寸の腰の脇差
を引抜いて亀さんの頭上へ打込んだ。不意をつかれた亀さん
は、これをかわす間もなく額を割られ、顔面を朱に染めなが
ら脇差をとって表へとび出した。二人は浜の路上で激闘を続
けたが、深傷を負っている亀さんは、次第に受太刀となり、
額面を朱に染めながら天坂の方へ四町ほど走って間瀬の小路
で遂に力が尽き息が絶えたと言う。刀をとれば腕のたった亀
さんも、長八の悪計に敢なくその一生をこの地に終えたのだった。
 常日頃亀さんに厚意を持っていた村の若衆は、非業の最期
を遂げた亀さんの死を悼んで、鄭重に今の地に葬り、その人
達の手によって建てられたのが、この無縁の碑であるという。
 私は記憶をたどりながら、当時の日記を繙いてみた。大正
十四年一月十五日の一節にこう書いてあった。その後長八は、
下田奉行のばった(巡査)の手で、浜川堤防で捕えられた。
後日譚は次回に…と。そして日記の末尾に短歌が添えられ
てこの物語は終っている。

 苔むせる石碑の面に夕陽さす秋の彼岸に黄菊押し置く
 名も知れず非業の最期遂げし人無縁の墓に香華たむけん


後記
 五十年の昔、私達が学んだ校舎は取壊され、今はその姿を見ること
はできない。私は彼岸の日、墓の在所を尋ねてみたが、そこは既に整
地され雑草の茂るにまかせ、私の尋ねる石碑の姿はそこにはなかった。

昭和54年賀茂村文化協会発行 文芸かも より 

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