宇久須鉱山回想
勤労学徒課整員係 酒井 正平

この鉱山は明治の頃より注目され数人の鉱山関係者により調査、、研究が行われていたが
最後は佐藤謙三等により細々と調査研究が実施されていた。
大戦末期になりアルミニウムの原料が不足していたので内地の明礬石を採掘することになり
伊豆明礬石に着目した軍需省開発本部が中心となり、昭和19年頃より実際に鉱石の採掘を
行った。土肥長陽閣に陸軍少尉が居住し、宇久須田子屋に中佐以下数名の将校が
宿泊していた。事務所は宇久須小学校の一部にあった。鉱山にかかわる設備機械作業員
鉱石の運搬等一切の事は住友鉱業がおこなった。最初に宇久須鉱山にて作業に当たったのは
住友系の北海道赤松鉱山の従業員であり、その後住友本社の社員が加わり組織ができあがった。
総務部、勤労部、採鉱部、第一第二厚生部の五部があり、(土肥金山には総務部があり部長は
高橋泉であった)事務場所は、現在のホテルニュー岡部の所に二棟の細長いバラックがあった。
職員住宅は、その近くに十数戸のバラックがあったが宇久須の民家を借りて通勤するものが
多かった。主な労務者は、朝鮮人200名、中国人(華人)約200名が主体であり、
朝鮮人は深田の海岸にバラック十数戸、華人は深田海岸より約1キロ上がった所の松ヶ坂という
所に長屋があって、そこで居住していた。華人の上衣の背に「華人」と大書きして一目でわかるようになっていた。
食事は悪く少量であった。高粱、とうもろこし、小麦、を粉にしたものを水で練ってソフトクリーム位の
大きさにしたものを饅頭と云い一日一個与えて、他の副食はなく、毎日朝、海水を桶で運びこれをつけて
食べていた。蛇、蛙、など生き物がいると監督に殺してもらい皆で分けて食べる状態であった。皆痩せて細く、
よろよろ歩いていた。勤労学徒は早稲田大学、秋田高専、農業大学、日本大学、静岡高校等、
約200名で、土肥館、最福寺、竜泉寺、宇久須慈眼寺、に夫々分宿していた。
早稲田、秋田高専の学徒は採掘にに当たり、日大は設計製図の補助、農大は食料増産(さつまいも等)
静高は事務の補助的な仕事をした。労働に当たった学徒は、毎日わら草履二足が切れる程の
重労働であり、衣類も満足に補給出来なかった。食事も消化が悪く栄養もない物が多かった。
胃腸をこわす物があり、静高付属の老教官、田村敬林少佐に頼まれて胃腸薬をさがして
与えたこともあった。朝鮮人と華人は時々数名脱走し、会社職員、警察、消防等大がかりな
山狩りを行い捜索に当たった。
土肥金山は休山となり、その職員、機械は宇久須鉱山に集められた。宇久須鉱山で採掘した
鉱石は土肥金山までトラックで運び、粉末にして大きなタンクの水の中でかきまぜて
オーバーフローしたものを集め乾燥させ、船で清水港へ運び精製する計画であった。
昭和20年8月15日終戦と同時に閉山となり、全人員解散した。
残務整理に残った者は華人一人一人に木製の箱を造り、食料、衣服、ハダシタビ、
金銭等を渡して宇久須港より船で長崎まで送ったが、その数は百数十名であり、
結核、病気、怪我、栄養失調で死んだ者も多かった。

参考文献 静岡県史   新版土肥金山
取材協力者  酒井 正平氏  水口為和氏

平成15年 賀茂村文化協会文芸 かも より

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