山犬峠あれこれ

神田 矢崎信夫

私が山犬峠の名を知ったのは、終戦後間もない昭和23年の秋で

新制中学が発足して、2年目の年でありました。

この頃私は賀茂中学校の前身でである宇久須中学校に務めておりました。

今日の様に、奈良や京都のような遠方への修学旅行は思いもよらない

時代でしたので、職員一同協議して、旧宇久須の村境である尾根伝いの

旧道を全校生徒で踏破する、いわゆる剛健遠足を実施したことが

ありました。大小屋の道を辿って、仁科と境を接する分水嶺に近い

旧道を歩いて行くと一部分低くなった尾根に出て、道が二手に

分かれていました。そして峠には腰丈くらいの高さの竹の棒に、

山犬峠と書いた板をはさんだ粗末な立て札が立っていました。

この頃、この道はすでに人跡まれな廃道で、それは道案内の立て札

というより、偶々そこを通り合わせた猟師か誰かが、目印に勝手に

名前をつけて立てたという感じでした。そんなわけでこの峠が

ほんとうに山犬峠と言うのか疑問を持ったまま、あまり気にも

とめず何十年か過ぎました。

ところが最近(注 この文章は平成元年に書かれたものです。)

になって、私はしきりと山犬峠の事に関心が持たれるようになりました。

それは数年前村に資料館を設置する事が決まり、郷土研究部の

仲間が村の家々を回って各戸に残っている古い道具や古文書等を

調べたことがありました。その時神田(じんで)の数軒の家に

古い猟銃が残されていることがわかりました。私の家でも

普請のとき、納屋の天井裏から銃身だけになった古い銃が

出てきました。私の家は勿論猟銃の残っていた他の家も先祖が

狩猟を業としていたという形跡のない家でした。その時

私はふと子供の頃祖父から聞いた話を思い出しました。

文久三年生まれの祖父も或いは先代から聞いたのかもしれませんが

昔は表通りの道を山犬の群が通ったりして家畜を襲ったり、

時には子供等に危害を加えたりしたことがあったそうです。

そこで方々の家では猟銃を備えておき、とぼう口にあるくぐり戸の

敷居を台にして、表通りを通る山犬を撃ったりしたものだということでした。

その事から、昔は神田の家の中には狩猟が目的でなくても、家畜や

作物ばかりでなく、時には自分達の身を守る為に銃を

備えていた家がかなりあったのではないかと想像されました。

そしてこの山犬の群は時々さきに述べた峠を通っては村里へ

出没したので、誰言うとなく山犬峠と名がついたのかなと

思いました。また七年前(注 平成元年から)だったと思ったが

村の文化展が宇久須の会場で催されたとき、賀茂村の地勢を

表した立体模型が確か海野さん親子の共同作品として展示され

それにも山犬峠の在りかが記されてありました。

あれやこれやを考え合わせて、やはり前記の峠の正しい名称が、

山犬峠だなと納得がいくようになりました。

なお文献によりますと、山犬は食肉目.山犬科に属し

狼に似た獣類で明治初年まで多数本州四国九州の山野に棲息し

ていたがこの後漸次減少し、今では全くその跡を絶つに

至ったということであります。そして現在ではその標本も

東京教育博物館に、福島県産の冬毛の牡が一頭残存

しているに過ぎないということであります。

 私が山犬峠について関心をもつようになった今一つの動機は、

小学校高学年になった頃家の表で友達同士山遊びの相談を

していたときたまたま来合わせた祖父が自慢そうに

「俺は若い頃日帰りで、河津に用足しに行って来たものだ。」

と話したことがありました。その時分宇久須から他所へ

行くには、今日のように国道があるわけではなし、どうしても

何カ所かある峠のどれかを越えて行かなければならないわけで

案外この山犬峠を通って河津への近道があったのかも知れないと

考えて見ました。また既に故人となられた元村長の鈴木美之さんから

聞いた話ですが、昔は天城で作り出した木炭や薪は、仁科や河津へ

出すより宇久須へ出した方が効率的であった。

然し落石や道幅がせまく、荷車もない頃で、山下橋の所から川船をつかって

浜まで出したということでした。遠足の時通った記憶では、山犬峠へ

通ずる道は荒れ果ててはいたが、かなりの区間道幅が随分広くなって

いました。それから考えるとこの山犬峠もかっては牛馬が木炭など

背にして盛んに行き来した、村の重要な産業道路ではなかったかと

考えられます。 

村の中にある旧道や峠の移り変わりを、いろいろ詮索すると

様々な事が連想され、想像が次から次ぎえと湧いてくるくるもので

興味を覚えると同時に、こうした思考を働かせる事が、

村の発展していく過程を考える上で、大変だいじな事では

ないかと思いました。

以上 文章 神田(じんで) 矢崎信夫

平成元年 文芸 かも(第18集)より