宇久須 柴区出崎神社御唄

下記の唄は大正7年に書かれた物を昭和後期に本にした物を元に
テキスト化して掲載しました。私 浅賀丈吉では分からない文字も多く
困難でしたので、大久須の浅賀豊氏にお願いし平成11年11月18日に完成しました。
改行がおかしいとは思いますが、すべて原本の改行位置にあわせました。
ご了承下さい。
父(浅賀泉)に聞いたところ大正7年当時 すでに分からない部分も多かったそうです。
ですので多分こうだろうという部分もあるそうです。




    宇久須柴区御船歌 
 応需 出雲 足立鍬太郎 校訂 
 
  御歌

アヽラめでたいな御代はめでたしノヱンソレ若枝も 
  ヱンヱン栄ゆるノウヱンコノ−ン葉も

山谷間のしばのいほりいほりノヱンソレ夏みやこヱ 
ンヱンなれどハリンノウエンコノ−ン旅

旅の殿様とモノヽ一夜モノ−ヱンソレサア寝た寝て
 もヱンヱンあるらむノウヱンコノ−ン若まだ若けれ 
ば野にも山にもノウヱンソレ臥す松はヱンヱン御代 
サハリンノウヱンコノ−ンそば

 声なほし
祝ひモノウヱンソレモノ松はヱンヱン祝ひハリンノウ
ヱンコノ−ン門 

 初春
(きせながは大将の鎧)「この部分は注意書きか?」

アラおめでたう初春のよき緋縅の著背長はみな小桜と
なりにけりさて又夏は卯の花のかきねの水に洗ひ革秋
になってのそのヨいつもいくさに勝色の紅葉にまがふ
錦革冬は雪げの空はれてヱンかぶとの星も菊の座もヱ
ン花やかにこそおどしげの思ふかたきをうちとりてヱ
ン我が名高くあげまきのつるぎは箱にをさめおく弓は
ふくろをいださすしてヱン富貴の御代となりにける

  黄帝
さても異国の黄帝のしん下の貨狄庭上の池の面を見渡
せば秋吹く風に一葉の散りて浮べば其の上に蜘蛛船乗
りてさヽがにの糸引き渡る姿よりたくみて船をつくら
るヽ黄帝御船にめされつヽ(三字)其時に御座は龍頭鷁首
とヱン名付けいはい給ふなりさてもめでたや此の御座
にお召しなされし我が君様の御代も日々に栄えゆく御代は

  松揃
アヽラめだたや鶴は千年亀は万年松は千歳の世々を経
て葉色は同じ深緑かヽるめでたき松はヱン異国大国我
朝に松をめでたう祝はるヽ先ず正月には門松彼方此方
で祝ひける君が代の久しかるべきためしにとホウヱン
かねてぞサアヲウうゑし住吉の松はおもしろや松の名
木おほけれど猶も其名は高砂の松の緑はきみが代の栄
えさかゆるめでたさよ摂津播磨の境の松和田の笠松高
野山には三鈷の松とや志賀辛崎の一つ松今に絶えせぬ
名所かな音に聞えし越前の汐越松とは是とかや加賀の
国では安宅の松はるばるたずねこヽに駿河の三保の松
原清見寺音に北野の老松ヱン直ぐなる御代に住吉の松
は常盤の色ぞかし千代の年経る春毎に猶色まさる姫小松ハ 

  桜揃
ヤンレ鶯の声にひかれて見れば見し花なりけりや初桜
来る春にまた咲き出づる花の錦の糸桜彼岸桜に普賢象
御法の花ともいひつべし泰山府君に雲珠桜色よき花の
枝に枝かさね桜に八重桜花に嵐の吹きとひて散らすな
樺桜花なき時の塩竈は葉までみごとな桜かな佐保姫の
小桜の花もとりどり姥桜散るを悔むか咲きかねていつ
も盛は遅桜咲く時は花の数にはあらねども散るには漏
れぬ山桜老をなぐなむ花見の酒宴うたへば心も若木の
桜ヱンヤヨヱンヤヨコノ嵯峨の桜はヨウ散るか散らぬ
かヲウランイヨホウ嵐こそ知れ花のふヾきぢやヱント
サンヨ花はをりたしノウ木は高し離れがたなのサンサ木のもとよ 

  小袖揃
ヤンレ嫁の名をたつるおばヾの茶の小袖召せや十七紅
鹿子伊達を尽さば実にもまた色のわるきはけし鹿子淀
の川上水色のヱンちらしをつけて着る人はアリヤ浅黄
染かやうらめしやサアヨイトナまだあひたらぬよノウ
ヱイ様にあひたらぬまた兎角かちんに餅の紋つけて御
鏡一重きりきりと後へおしまわしヱン結びし帯は木賊
色綺羅をみがヽば箔絵の御小袖御稽古にござる水松茶
にこび茶唐茶黒茶の御小袖を誰が召せども吉岡染を兼
房小紋に檜垣をつけて二重染ヤアンさても紺屋はのり
(糊と法)の道邪正一如は是やらむ花色に短冊つけて召せや
紅絹裏通し襟しのぶ夜の御小袖は松にや胡桃の御紋は
ようござんせうノウホウソコダヨ召したら召したらよ
ござんせうホンホンサンさてまことに本無垢に召した
らげにもよござんせう月の夜に人目忍んでナ御座りて
御心がつかぬかさ−え−た−ヲウノウ月の夜はハ−た
だいらぬ白小袖サンヨヱイ


 神揃 原唄誤謬多く十分に校訂し難し
 
我はヤア都あたりの順礼でござるヱン廻り廻りて神の
社を尋ぬればヱン総じて神の御数は九万八千七社なり
ヱン高天が原神はましますと神の−もとに伊奘諾伊奘
冊まことや−−らんアウラカウアラ鹿島ソレみろ−−
−−−−く−−ホンの船−がついたと申すヱンヱン天
照大神熊野権現鹿島香取諏訪熱田日本宗社の宇佐の宮
ヱンかたじけなくも八幡のヱン御立ち給ふ御社を心静
かに伏しをがむヱン伊奘諾伊奘冊神の御事は我等が出
雲の故郷国に立ち給ふ素盞鳴宮こんど歩みを運ぶ輩を
誰か殊勝と受けざらむヱンそこに殊勝をうけとりてヱ
ン弓矢はなほも高砂の松はエイ

     若衆揃 同前
ヤンレ都よりヱン今年きさらぎの空もすみヱンタノム
ヨ風もろともにヱン故郷いそぐ旅の空ヱン霞に関は鶏
のヱン空音にあくるあけぬればヱン道すなほなる夜を
こめてはや東雲にゆきかへる貴き賤しき数しれず中で
とりわけ春様は(この間脱句有)にと尋ぬればヱン先ず御先な
る殿様も見やまれつヽ紫のヱンヤヨヱンコノ梅の香を
桜の花に匂はせて柳の枝に咲かせても是ではいかれますま
いとヱン眼も放されで行くほどにヱン若し世の人
が咎めなばあずま様よりあらはれて憂き身の咎となし
果てむ思ひ出しヤア行く秋のホウヱンヤヨエイヤヨコ
ノ天の川とわたる舟の柁来ばやアン杢之助様思ひ出で
ノウエイ夢に逢ふ蓑島様は返魂香は焚かねども深き御
縁の有明にヱン光をうつす緒方様月のかつらの緑様風
も渚の浦に住むヱンなかなかここは品川ぢや若者ヱン
 
以上九曲は、安政五年の唄本を基礎として、
幕府唄及安良里歌を参照して一校を加えたり。
此の他明治二十四年の唄本にある高砂・四季・
留歌皆安良里と同系なりと認む。ただその最終の一首は
 さてもみごとな小田原躑躅本は箱根に葉は山中に 
 花は三島の女郎町に
という一の郷土的色彩を有するがおもしろしと考へたり。
     大正七年十月二十六日    校者 誌


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